コージの海外バレー放浪記(Koji's Overseas Volleyball Wandering)

還暦を前に海外で奮闘するオヤジ物語!!

地球の歩き方・NZ編より(2009/7/17)

第1回 私がニュージーランドへ来た理由
2008.03.03
新天地を求め赤道越え
2007年2月28日、初めて赤道を越え南半球、ニュージーランドへやってきました。ニュージーランドは夏真っただ中というのに、私は冬物のブレザーにスラックス、ネクタイのスタイル。アウトドア・スポーツ大国にはそぐわない格好で、ニュージーランドの土を踏んだのです。

私はプロバレーボールコーチとして、サウジアラビアやタイ、マレーシア、ミャンマーなどでコーチ活動を行ってきました。クラブチーム監督もあれば、ナショナルチーム監督を任せられた時期もあります。

「海外コーチ」となると、日本バレーボール協会派遣または外務省派遣と思われがちですが、私の場合すべて個人契約です。要するに、自分で契約してくれる国またはクラブチームを探すわけです。

2006年3月、契約が終了したミャンマーから戻ると再び仕事先探しが始まりました。アメリカはもちろん、ヨーロッパにも数多くのオファーレターを送信しますが、よい返事は返ってきませんでした。そんな中、ニュージーランドのハミルトン・バレークラブから「よろしければ、来ませんか?」と返事をもらったのです。

早速翌日から、ニュージーランドのバレー事情を調べるとともに、国の状況は? 経済は? 民族、宗教は? と、毎回のことながら調査をすすめ、そこで初めてハミルトン市がニュージーランド北島の中心に位置する町ということを突き止めたのです。

それから私とハミルトン・バレークラブとのやりとりが始まりました。チームの構想やニュージーランドのバレー状況など、お互いの質問をぶつけ合い、協会側は正式に監督採用を決定したみたいです。こうして、私のバレー活動国はニュージーランドとなったわけです。

採用が決まったからといって、浮かれてばかりもいれません。過去の国ではバレー協会、またはクラブチームが、私の保証人となり、生活の面倒を見てくれましが、今回のハミルトンクラブでは、「協会は給料を払えませんので、自分で収入源は確保してください。また、住居は今回提供しますが、今後は自分で探してください」と。“こりゃ~、今までの国で一番大変だぞ!”と過去にない覚悟を決めたことは、いうまでもありませんでした。

チケットも自分で予約し入国日時を報告したところ、ワイカトバレー協会理事長が出迎えに行くとの連絡がありました。今までも各国へ入るときは、理事長やスポンサー、またはメディア関係者らの出迎えがありましたので、今回も正装、ブレザーにネクタイという容姿になったわけです。ですが、出迎えてくれたのは、ジーンズにポロシャツ姿の理事長だけで、もちろん、メディア関係者はいませんでした。

到着日の午後から、早速練習スケジュールが組まれていました。その後、数日間高校チームの練習に参加していたのですが、空港でお目見えすることのなかったメディアが、ある日突然私を訪ねて来ました。そして、翌日の新聞には「日本からバレーボールコーチ来る」と大きな記事が。

海外移住の理由を尋ねると「国の美しさに惹かれた!」ということをよく耳にしますが、私の場合は「国のバレー選手に惹かれた」「私をコーチとして必要としてくれた」の方が、正確な答えでしょう。

今回の件も、ワイカトバレー協会所有のハミルトンクラブチームが、私を必要としてくれたからニュージーランドへ移り住んできたわけです。私は、そんな彼らの期待に応えようとベストは尽くし、チーム強化とバレーボール普及に努めます。そのためにも、協会や選手の協力が絶対必要ですので、彼らを理解し、彼らの国「ニュージーランド」を好きにならなくてはなりません。

私のニュージーランドバレー活動は始まったばかり。どんなドラマが生まれるか、とても楽しみにしています。

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